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日野家と日野家住宅
17世紀に創設された日野家(旧中村家)は、大戦まで、農林業の振興はもとより、各種事業の創業と社会事業を通じて、地域の人々の生活を支え、地域の人々と共に生きてきた。
日野家住宅は、残存する元禄時代の倉から、大戦前の主屋の大改修に至るまで、その歩の生きた証として後世に伝えるべく、敷地内の8棟が平成27年(2015年)11月に文化庁登録有形文化財に登録された。

1.日野家について 
日野家は、甲立の荘の郷主であった中村備中守の孫にあたる庄兵衛長輝(元禄15年(1702年没)を一代目とする。

永寶4年(1667年)に酒造業を創め、その他、貧しい農民救済のための働き場所と収入確保のために、清酒や製鉄、麻草、諸紙、蝋燭などの農村産業を啓発し、それらを交流物資として、太田川の船航権を得て、「山縣屋」として、大阪との商取引のために、広島や堺、京都伏見に支店を設けて、永宝・元和・元禄時代(17世紀後半)に、その後の繁栄の基礎を築いた。

享保10年(1727年)には、藩主浅野家のご本陣として、扶持米39石を給わり、生涯の苗字帯刀を許され、士豪としては、この上ない栄誉を賜っている。

その後、明和7年(1770年)に大火を被るものの、その躍進は止まることを知らず、農業改善や耕地整備、造林などの農林業はもとより、廃藩置県時の県議会の発会や銀行の設立(頭取)に関わり、当時の最新技術を駆使した自前の水力発電所、農業用水の確保、鉄道敷設(芸備線)への協力等の社会事業と、多方面にわたる公職を通じて、地域の発展に貢献した。吉田町と甲田町には、その彰徳碑が残る。

繁栄は大戦まで続き、山林や田畑などの資産を築き、芸北随一の大地主となり、昭和19年(1944年)の「緊急時企業整備法」による酒業の廃業や農地解放、財産税、富裕税等による大転換を迎えるまでの間、近世における当地域の社会・経済の発展に大きな役割を果たした。

2.日野家住宅について
現存する最古の建物は、明和7年(1770年)の大火から逃れた、元禄15年(1702年)に建てられた「納戸倉」である。

安永8年(1779年)には、それまで広大であった庭園はその必要なしとして縮小され、主屋も建て替えられた。主屋は、当時藩主のお立ち寄り所として本陣が敷かれていたことにより、御成間として床の間は上段の間で、二つの御成門があった。

その後、弘化5年(1848年)には酒造庫が、そして明治2年(1869年)には、浅野家吉田御本館の普請へのお礼として、吉田上屋敷の西門(元治元年(1864年)建立)をいただき移設し、現存する。

昭和2年(1927年)には米倉や、事務所と地域の公民館的な利用も兼ねた集会室を持つ洋館2階建てが、そして地域の青年の修養と肉体の鍛錬を目的とした青年道場が造られた。青年道場は、その後に広島二中(現:観音高校)の林間学校にも使われ、酒造具洗い場であったところにテニスコートが、そして近くの山に水力発電の貯水池を兼ねたプールが造られた。

また、昭和9年から11年(1936年)には、主屋の大改修が行われ、上段の間を平らな床に改修するなど、使いやすく、またトップサイドライトによるガラスの光天井など、壮大さはそのままに、当時の財をもって、技術の粋を凝らしたことが判る。

山「白土」で採れる陶土は、幕末より広島藩の地産奨励策として「江波焼」に使われたという記録があり、大戦後に、酒造倉は製陶作業所に、そしてテニスコートの跡に登窯が作られ、今もその跡やレンガの高い煙突が残る。

その後、台風の被害等で一部の解体や改修をしながら現在に至る。
また、岩屋城山を背景に、清風川の清流を控えたこの地にあって、平成24年(2012年)には、圃場整備事業により、敷地周辺全体が整備され、四季折々に美しい田園の原風景を、後世に残すことができることとなった。 (十三代当主) 

*文化庁の文化遺産オンラインに掲載されています
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 「日野家住宅」の四季

春
夏
秋
冬
 日野家の「白土」と「江波焼」
「江波焼」の始まり 1828年
古文書
江波焼きの窯は、広島藩の国産奨励策とし、文政11年(1828年)に築かれたと言われ、その後同世紀に消滅している。
日野家の大平山で採れる「白土」が使われたことが判る記録が、日野家の古文書「御山方御用控」に残る。
 
昭和30年代の「白土」と日野家
大戦後には、道を拓き。「日勝鉱業」として、大規模な採掘が行われ、陶器製造会社への供給と共に、日野家でも製造され、今や懐かしいJRの汽車の窓から買ったお茶器も下写真に見られる。
今尚、土を求めて、お越しになる陶芸家の方がおられる。
製造
   
まぼろしの江波焼探偵団  (会長 中川巧)

焼き物江波焼き記念碑
(七代金城一国斎)

窯があったとされる広島市江波、皿山の近くに高速道路が建設されることになり、2009年に、広島市舟入公民館に、同探偵団が結成された。
発掘調査と古文書の調査により、2016年に活動報告書がまとめられ、2017年には、復刻版の製作が計画され、日野家の大平山で白土を採掘、陶芸家広兼行男氏(大竹市)により成形され、会員による絵付けを経て、同年11月に、同氏の野分窯で窯出しが行われた。2018年には、「江波焼記念碑」が完成し、「江波焼ー「まぼろし」の霧を晴らす試みU(執筆:倉橋清方氏)」が刊行された。

2017年12月20日 中国新聞に記事が掲載されました。 
こちらを参照ください。

江波焼探偵団
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